第9回定期演奏会

 

1990年12月2日(日)1:00PM 開演

 

こまばエミナース・ホール

 

I. 古典イタリア歌曲

 

  福永陽一郎 編曲

 

  指揮 牛尾孝

 

  ピアノ 広沢麻美

 

  Amarilli, mia bella・Gia il sole dal Gange

 

  Ombra mai fu・O del mio dolce ardor

 

  Chi vuol la zingarella

 

II. 日本民謡集

 

  清水脩 作曲

 

  指揮 牛尾孝

 

III. フランスの詩による男声合唱曲集「月下の一群②」

 

  ポール ヴェルレーヌ・ポール フォーレ・アドルフ レッテ

 

  ・ルミ ド グールモン・モーリス ヴラマンク 作詩

 

  堀口大学 訳詩 南弘明 作曲

 

  指揮 牛尾孝

 

  ピアノ 広沢麻美

 

IV. 男声合唱組曲「草野心平の詩から」

 

  草野心平 作詩 多田武彦 作曲

 

  指揮 牛尾孝


ご 挨 拶

 

代表:伊藤 俊明

 

 会場の皆様、本日はようこそお越し下さいました。年ごとにきまって私達の演奏会に来てくださるお顔が増えて、私達は何よりもこれを励みとして、今日この日のために練習を重ねてまいりました。

 

 ご多忙の中、貴重な時間を割いてご来場くださいましたみなさまに、改めて厚くお礼申し上げます。

 

 昨年は、多田武彦先生の創作曲「樅の樹の歌」に明け暮れた1年でした。しかし、今年もまだ余韻冷めやらず、この夏は詩人・尾崎喜八先生の詩情を育んだ信州富士見高原で再び演奏する機会が与えられ、富士見高原のみなさまとの感動的なふれあいを通して、合唱する喜びに浸りました。

 

 しかし、このひとときの充実感とは裏腹にコンクールの上位入賞を、今年も果たし得なかった無念さもあります。

 

 私達は、過密な日々の仕事を背負いながら歌う社会人合唱団の、歯がゆいほどのディレンマを感じています。しかい、同じ貴重な時間を割いて歌うなら、悔いることのない、ベストを尽くした音楽を創りたいと、やや身分不相応の、欲張った気持ちを捨て切れません。

 

 そこで今年は、「声づくり」を課題として、大久保昭男先生のボイストレーニングを受けることにしました。とは言え、名器は1日にして成らず、本日の演奏において大久保先生のご指導に十分お応えするには、まだまだ勉強不足であると言わねばなりません。私達は、多田先生からいただくご助言「言葉を大切にしたフレージング」と大久保先生のご指導による「声の土台づくり」を、しっかりと胸に留めて、これからもなお、一歩一歩向上の努力を積み重ねてゆきたいと思います。

 

 毎年の事ながら、私達社会人男声合唱団の悩みは、転勤、長期出張や職場の事情で、活動への不参加を余儀なくされる団員が少なくないことであります。昨年の演奏会以降、10数名のメンバーが、やむなく戦列を離れました。しかし幸いにも、今年、同数以上の新入会員を迎え、また新しい活力となって活動を支えています。なお嬉しいことに、かつて遠地へ赴任し数年を経たいま再び東京勤務となってアムバックしてくれた仲間や、また遠地へ転勤後もなお「遠距離通勤」して団員の席を堅持してくれている仲間がおり、私達の毎年の歩みにも、何か熱いものが流れているようです。心の片すみで、広友会が「ホームランド」となるような合唱団づくりが、私達の理想でもあります。

 

 広友会のカレンダーでは、今日の演奏会が年の終わり。明日から新しい年が始まります。気持ちばかりが先走る私達ですが、ご来場のみなさまには、どうか本日の私達の演奏に厳しいご助言をたまわり、次の年へのお励ましをいただきますようお願い申し上げます。

 

  そして、また来年お目にかかれますことを楽しみにしております。本日のご来場、まことに有難うございました。

『草野心平の詩から』解説

 

 草野心平(1903~1988)が自らの生の軌跡を振幅の激しいものと考えていたことは、70歳の時の『四十八年のジックザックの』という詩集のタイトルによく表われている。そのジグザグの道はすなわち、日本という国のたどった道だった。男声合唱組曲『草野心平の詩から』に採られた五つの詩は、太平洋戦争をはさんだ15年ほどの歳月の、詩人の精神世界の揺れをよく示している

 

 心平は1938年35歳のとき、中国北部を大旅行し、北京南西の河北省の石家荘の街を訪れた。そこは前線に近く、兵隊を相手にするために、客商売の女や商人たちが集ってくる街であった。「石家荘にて」の心平は、18歳の娼婦と部屋の中で向い合っている。遠い稲妻がひかる。夜全体が白く明滅しているようだ。月蛾すなわち娼婦たちの、愛と憎しみが分かち難く交差している石家荘の街。この詩には大陸放浪へのロマンチシズムがある。

 

 1951年刊の詩集『天』に収められた「天」は、想像力によって空の高みから富士山を見下ろしつつ、富士山に比すれば人間も鳥も樹木も<非在>になってしまうと歌う。心平は、かつてナショナリズムのシンボルとして機能していた富士山を、時空を超越した絶対的存在へと昇華させたのである。

 

 「金魚」は、戦後に中国を再訪したおり北京中央公園で見た大琉金の印象を絵画的に描いた詩。あおみどろのなかの金魚が、中国の大平原の遠くに眺めた野火と、ぼんぼりと、三重映しになる。芝居に関わる語と官能的な語によって全体のイメージを造形した、極彩色の官能美である。心平は、日中関係の政治的な変転のなかで揺れながらも、中国的な美に魅せられ続けていた。

 

 心平は日本の敗戦に遭って1946年3月に上海から引き揚げ、しばらくは失意の内に日々を送った。彼の創作意欲を呼び起こし文壇に引き戻した人物は、高村光太郎である。光太郎は岩手県花巻の近くの山口村に疎開していたが、心平は1946年9月に初めて光太郎を訪ね、その後たびたび岩手まで足を運んでいる。1951年4月、光太郎宅に近い志戸平温泉で、そんな事情を背景にして「雨」は生まれた。雨と靄による天地の交歓のただなかにあって、心平はあらためて生のよろこびを味わっている

 

 心平は、瞬時現われては消えて行く刹那的存在にこそ美を見出していた。そのことを日本と中国に共通な東洋的美意識と捉えていた。その美意識を桜の落花に象徴させたのが、戦後まもないころの「さくら散る」である。具体的には歌舞伎の舞台から発想して「東洋の時間のなかで。/夢をおこし。/夢をちらし。」と表現したようだ。しかしこの詩からは、敗戦の後も日本・中国という枠を越えた「東洋」に生きていたいという、心平の精神的志向をうかがい知ることができる。    

  

   (解説 深沢眞二 ここにはアラウンドシンガース1997年演奏会のために書いた文章を転載しました)