第22回定期演奏会

 

日時:2004年5月29日(土) 16:30開場 17:00開演

 

文京シビック大ホール

 

 

1 5 Szlovák népdalok 5つのスロヴァキア民謡(兵士の歌)

 

  Bartók Béla 作曲

 

  指揮 村松賢治

 

  I. さあ、友よしばし聞け  II. 不安な気持ちで私は行く  III. 私の仲間たち

 

  IV. ああ、もし私が死んだら  V. 戦場に行ったら  

 

 

2 Muistse mere lauland 古代の海の歌

 

  Veljo Tormis 作曲

 

  指揮 藤井宏樹  テノールソロ 荒川将臣

 

 

3 因陀羅(Indra) - for Male Chorus & Piano -

 

  新実徳英 作曲

 

  指揮 藤井宏樹  ピアノ 金子信子

 

 

4 無伴奏男声合唱による日本名歌集「ノスタルジア」より

 

  信長貴富 作曲

 

  指揮 藤井宏樹

 

  I. 故郷  II. 鉾をおさめて  III. 赤とんぼ  IV. この道

 

  V. 箱根八里  VI. みかんの花咲く丘

 

(アンコール)

 

  赤とんぼ(三木露風 作詩 山田耕筰 作曲)   指揮 藤井宏樹

 

(エール)

 

  ディオニュソスの息子たち(関裕之 作詩  多田武彦 作曲)

演奏会によせて

 

音楽監督 藤井宏樹

 

 たしか、前回の演奏会のために原稿を書いていた時は、まだイラク戦争のさなかだった。

 

あれから一応戦争が終わったかに思えたあの悲しみの地には、未だ憎しみの渦がとぐろを巻き、終わりのない、戦いが続いている。しかしこうした戦火の中でも、子供たちはたくましい。瓦礫の山でかくれんぼしたり崩れた壁に向かってボールを蹴ったり。それはまるでつらい記憶から逃れようとしているかのようにも見える。

 

無心に生きる彼らにも、心の傷は深く残っているのだ。この子供たちもやがて、大人になり、この戦争の真実を知る時がくる。メンネルには60歳前後の世代がかなりいて、このことは、戦争のさなかにいるあのイラクの子供たちと同じ経験を経てここまで生きてきた人間がいることを意味している。

 

 私は戦後生まれなので、この時代にあった事実を知らずに長い間生きてきたのだが、音楽作品を通じて、それらは少しずつ私に近づいてきた。いや、私が近づいていった。戦争はその時を生きた人だけに限らず、その後の時代に生まれ暮らす人の心にも、様々な形となって、影を落としていく。無防備にテレビなどで流されている映像に私は、また言葉を失い、また、この繰り返される事実が、少しずつ自分から離れてゆくようにも思えてします。

 

今日の演奏会が、このことに対しての直接的な意味を持っているわけではない。しかし、ここで歌う人の多くが、先の体験を共有している。この心がみずからの楽しみのために歌う作品をとわたしが考えた結果である。若輩の身勝手どうかお許しいただきたい。

ごあいさつ

 

代表:伊藤 俊明

 

 鮮やかな緑の季節が巡ってきました。

 四半世紀が過ぎて、広友会は本日、創立25周年を迎えました。創立当時わずか12名、

40歳前後の壮年も今は頭に霜が降りるころ、振り返れば風雪の幾年月は遠く過ぎ去り、

今、大勢の仲間とともに在りますことを、感慨ひとしお胸にいたします。

 

 社会人が歌い続けますことは容易ではなく、時節柄、団員数の消長が気になるところ

ですが、おかげさまでこの一年、新しく入団者を迎え、また事情により一旦は離れておりました団員が、久しぶりに懐かしい顔を連ねます本日のステージは、格別の喜びでもあります。

 

 遠く来た道を振り返りますとき、私たちをいつも見守ってくださいました方々、そして本日ご来場下さいました皆様に、深甚の謝意を表する次第でございます。

 

 さて、本日の演奏会は、藤井宏樹先生のデザインにより、主題を「民族」といたしました。

虚飾のない素朴な、生の人々の心や情景を、印象的な音楽表現で描いた作品を選んで下さいました。最終ステージでは、私達が幼年のころから口ずさみ耳にした懐かしい日本の名歌の数々、「ノスタルジア」を演奏いたします。淡い郷愁が心の安らぎを誘いますように・・・・。

 

 25年の節目は通過点にすぎず、広友会は変わらず淡々と活動を続けてまいります。

 音楽の喜びをお伝えする演奏団体として、そして団員一人ひとりの大切な生活の場として、真剣で、和気藹々の日々を過ごしてまいります。

 

 最後のなりましたが、この一年もまた、私たちを新しい音楽の世界に導いてくださいました音楽監督・藤井宏樹先生と、日常活動におきましても深くお力添えを賜りましたピアノ伴奏者・金子信子先生に、心から感謝の意を表します。

信長貴富編曲『無伴奏男声合唱による日本名歌集 ノスタルジア』(抜粋)解説

 

 この曲集は、1999年と2003年の二度にわたり、早稲田大学コール・フリューゲルの委嘱によって男声版に編曲された近代日本の童謡・唱歌、全10曲から成っています(カワイ出版、2004年1月刊)。その中から、本日は次の6曲を演奏いたします。

 

1「故郷」 詩:高野辰之、曲:岡野貞一

 1914年成立の文部省唱歌。作詩者の故郷は北信濃・豊田村、作曲者の故郷は鳥取です。しかしもはや特定の地方ではなく、万人にとっての「故郷」の原風景を歌った歌として愛唱されています。

 

   うさぎ追いしかの山  小鮒つりしかの川

   夢はいまも めぐりて  忘れがたき故郷

 

   いかにいます父母  恙なしや友がき

   雨に風につけても  思いいづる故郷

 

   こころざしを果たして  いつの日にか帰らん

   山はあおき 故郷  水は清き 故郷

 

 漢文の熟語「故郷忘じ難し」や「故郷に錦を飾る」を発想の基本線にして、「ふるさと」と柔らかく結んだ所がこの歌の独特の雰囲気を生んでいます。

 

2「鉾をおさめて」 詩:時雨音羽(しぐれ・おとわ)、曲:中山晋平

  雑誌『キング』1926年正月号に「金扇」という歌で発表され、のちに改題されて「鉾をおさめて」となりました。時雨音羽は「君恋し」で有名な流行歌作詞家で、『出船の港と利尻島』という著書では「鉾をおさめて」について、「この歌は鯨とりの歌だが、人々の青春から故郷の母へ捧げる歌でもある。私はこの世で一番美しいも

のは、母の愛だと思っている。どんなに世の中が変わっても、母の愛の美しさは変らない。」と書いています。

 

   鉾(ほこ)をおさめて 日の丸上げて 胸をドンと打ちゃ 夜明けの風が

   そよろそよろと 身に沁みわたる

 

      灘の生酒(きざけ)に 肴は鯨  樽を叩いて 故郷の唄に

   ゆらりゆらりと 日は舞い上る

 

    金の扇の 波波波に 縄のたすきで 故郷の踊り

      男男の 血は湧き上る

 

    エンヤッサ エンヤッサ ヤンレッサ ヤンレッサ

    躍り疲れて 島かと見れば 母へ港へ 土産(みやげ)の鯨

 

 これを作詩した当時、彼は大蔵省に勤めるかたわら詩を書いていたのですが、『キング』誌から「元気のいい作品」を依頼され、茨城県大洗海岸へ出かけてイメージをふくらませたそうです。また、故郷の利尻島で大きな鯨を見た思い出が活かされています。

 

3「赤とんぼ」 詩:三木露風、曲:山田耕作

 露風は1889年兵庫県龍野市の生まれ。13歳の時に「赤とんぼとまっているよ竿の先」という俳句が雑誌『少国民』に載りました。そして、詩人として世に出てから後、この俳句のイメージをふくらまして、32歳の1921年に童謡雑誌『樫の実』に「赤とんぼ」を発表しました。

 

   夕やけ小やけの 赤とんぼ 負われてみたのは いつの日か

   山の畑の 桑の実を 小籠に摘んだは まぼろしか

   十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた

   夕やけ小やけの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先

 

 露風自身、「『赤とんぼ』の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を脊(せ)に負うて廣場であそんでゐた。その時、私が脊の上で見たのが、赤とんぼである。」と書いています。また、この歌は、1955年の松竹映画『ここに泉あり』の中で歌われたことで、広く知られるようになりました。

 

4「この道」 詩:北原白秋、曲:山田耕作

 白秋は1925年8月、樺太・北海道の旅をしました。翌年、雑誌『赤い鳥』8月号に「この道」が発表されました。おそらく、実際の「この道」とは、その旅行で通った道、有名な「白い時計台」にも近い、札幌の北一条通りでしょう。

 

  この道は いつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が 咲いてる

  あの丘は いつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ

  この道は いつか来た道 ああ そうだよ おかあさまと 馬車で行ったよ

  あの雲は いつか見た雲 ああ そうだよ 山査子(さんざし)の枝も 垂れてる

 

 あかしや(実はニセアカシヤ)、さんざしは、北海道で実際に目にした樹木と思われますが、ともにトゲのある木です。白秋でトゲのある木の歌といえば、1924年の「からたちの花」があります。トゲのある木は、白秋にとって子供の頃の記憶の世界への入り口なのかもしれません。旅先で見た風景が、子供の頃に「いつか来た道」

「いつか見た丘」「いつか見た雲」に似ている、そうだ、「おかあさまと馬車で行った」あの時の‥‥‥。「この道」の主題は、そのような幼年時代追憶と言えます。

 

5「箱根八里」 詩:鳥居忱(とりい・まこと)、曲:瀧廉太郎

 1901年の文部省編『中学唱歌』には、さきに歌詩を発表して曲を懸賞付きで公募した唱歌が含まれています。「箱根八里」は、そのときの瀧廉太郎による当選作です。彼が数え年24歳でこの世を去る、そのわずか2年前でした。

 

   箱根の山は 天下の険 函谷関も 物ならず

    * 万丈の山 千仞(せんじん)の谷 前に聳え 後(しり)えに支(ささ)う

      雲は山をめぐり 霧は谷をとざす

      昼猶闇き 杉の並木 羊腸の小径は 苔滑らか

      一夫関に当るや 万夫も開くなし *

   天下に旅する 剛毅の武士(もののふ) 大刀腰に 足駄がけ

   八里の岩根 踏み鳴らす 斯(か)くこそありしか 往時の武士

 

     箱根の山は 天下の阻   蜀(しょく)の桟道(さんどう) 数ならず

        (*リフレイン*)

      山野に狩する 剛毅の壮士(ますらお)  猟銃肩に 草鞋(わらじ)がけ

      八里の岩根 踏み破る  斯(か)くこそありけれ 近時の壮士

 

鳥居は当時音楽学校教授でした。この詩には漢詩文の対句の技法が駆使されています。

「箱根の山は天下に名だたる要害だ。函谷関だって物の数ではない。

 *高い高い山!深い深い谷! 坂道を上っていると、前方の道は高い山の聳え立つ先にまで続き、後方の道は深い谷の底から続いていて旅人を支えている。雲は山を取り巻き、霧は谷を閉ざしている。昼でも暗い杉の並木、曲がりくねったつづら折りの細い道には滑らかに苔が生えている。箱根の関所は、一人の兵が封鎖すると一万

人の兵が攻めかかっても開門させることができない。* 

 この広い天下を旅する肝の太い武士は、大刀を腰に差し、山道を歩くための足駄を履いて、箱根八里の岩の根方をからころと踏み鳴らす。こんなふうだったんだよなあ、昔の武士は!

 箱根の山は天下に名だたる要害だ。蜀の桟道だって物の数ではない。

   (*リフレイン*) 

 この箱根の山野で狩りをする肝の太い猟師は、猟銃を肩にかけ、わらじを足に結び、箱根八里の岩の根方をすみからすみまで踏破する。箱根を訪ねたとき、こんなふうだってことがわかったよ、最近の猟師は!」

 

6「みかんの花咲く丘」 詩:加藤省吾、曲:海沼実

 1946年8月、当時12歳の童謡歌手、川田正子のために作られた曲です。

 

  みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道

  はるかに見える 青い海 お船が遠く かすんでる

 

  黒いけむりを はきながら お船はどこへ 行くのでしょう

  波にゆられて 島のかげ 汽笛がボウと 鳴りました

 

  いつか来た丘 母さんと いっしょに眺めた あの島よ

  今日もひとりで 見ていると やさしい母さん おもわれる

 

 静岡県伊東市でのNHKラジオ番組「空の劇場」の公開生放送にあたって、海沼実は、前日たまたま出会った富士市出身の加藤省吾に急遽この詩を書いてもらいました。海沼は東海道線の車中おおいそぎで曲を付けたということです。作詩の際の注文は「みかんの歌の歌詩を作ってくれ。『リンゴの唄』の向こうを張るつもりで。伊

東の丘に立って海に島を浮かべ、船には黒い煙を吐かせてほしい。」ということでした。放送直後から、NHKには曲名の問い合わせやリクエストの電話・葉書が殺到し、川田正子の代表的ヒット曲となりました。敗戦間もない頃の日本人の心を励ました歌のひとつです。