第19回定期演奏会

 

2001年3月18日(日) 12:45開場 13:30開演

 

簡易保険ホール「ゆうぽーと」(五反田)

 

エール「ディオニュソスの息子たち」

 

  関裕之 作詩  多田武彦 作曲

 

  指揮 村松賢治

 

1 男声合唱組曲「富士山」

 

  草野心平 作詩  多田武彦 作曲

 

  指揮 藤井宏樹

 

  I. 作品第壹 II. 作品第肆 III. 作品第拾陸 IV. 作品第拾㭭 V. 作品第貮拾壹

 

2 男声合唱のための「五つのルフラン」

 

  三善晃 編曲

 

  指揮 松﨑隆行

 

  I. 中国地方の子守歌 II. お菓子と娘 III. カチューシャの唄

 

  IV. 鉾をおさめて V. 椰子の実

 

3 Drei Männerchöre(3つの男声合唱曲)

 

  Friedrich Rückert 作詩  Richard Strauss 作曲

 

  指揮 藤井宏樹

 

  I. Vor den Türen  II. Traumlicht  III. Fröhlich im Maien

 

 

4 合唱のためのコンポジション第6番「男声合唱のためのコンポジション」

 

  間宮芳生 作曲

 

  指揮 村松賢治

 

  I. 第1楽章 II. 第2楽章 III. 第3楽章

 

(アンコール)

 

  かきつばた(『柳河風俗詩』より)(北原白秋 作詩  多田武彦 作曲)

 

指揮 村松賢治

 

  そうらん節(北海道民謡/清水脩 作曲)

 

          指揮 松崎隆行

 

  Agnus Dei(Sven-David Sandström 作曲)

 

                 指揮 藤井宏樹


「富士山」解説

 

 草野心平は、第二次世界大戦をはさむ1940年から1951年にかけて富士山をテーマにした詩を発表し続け、「作品第○○」のかたちのナンバーによる題名を付けてまとめた。全26編、心平37歳から48歳にかけての詩業である。この間、家族を連れての南京移住と敗戦による帰郷、苦悩の果ての文壇復帰と、心平は波乱の時代を生きた。富士山をめぐる詩群も、時代の波による変化のあとを残している。東洋に君臨する日本精神の象徴としての富士山から、人間世界を超越した〈大存在〉としての富士山へ。それは二十世紀なかばの日本人総体の心の記録でもある。

 

 男声合唱組曲『富士山』の第1曲「作品第壹」(第一)は、「夢見るわたくしの。富士の祭典。」をくり返して枠を作り、日本古代を幻視している。蝶鳥・獣や人までも、富士の麓で春に酔っている。すると中国から、黄鳥が使者として朝貢するかのように渡ってくるのだ。

 

第2曲「作品第肆」(第四)になると、同じく春でも春愁がテーマとなっている。東京郊外、荒川千住大橋付近の土堤が舞台。明るすぎる風景の中で、詩人は富士山までもが子供らのなわとびに参加して遊んでいるような錯覚を覚えている。外界の春からはあまりに遠い心の憂鬱(その理由は明かされていないが)のために、頬に当たる春光は涙のそれとまがうばかりだ。

 

第3曲「作品第拾陸」(第十六)の舞台は茨城県の牛久で、はじめは「黒富士」と題されていた。関東平野の遙か西方に立つ、日没時のシルエットの富士、その上空の金の雲。富士は一瞬神となり、また現実に還る。

 ここまでが日本の敗戦以前の「富士山」であり、以下は戦後の「富士山」である。

 

 第4曲「作品第拾捌」(第十八)には「富士」という語がでてこない。「黄銅色の大存在。」とあるだけである。その大存在は地軸と天とをつないでいるのだという抽象度の高い想像。第5曲「作品第弐拾壹」(第二十一)は、はじめ「宇宙線富士」と題されていた。夕映えの富士に宇宙線の、つまり「天」からの大驟雨がふりそそいでいるという。この二つの詩からは、敗戦による虚脱から富士山をアイデンティティの支えとして再び立ちあがろうとする詩人の意志が感じ取れる。

 

 多田武彦先生は1956年にこの組曲を作られた。『柳河風俗詩』に続く第二作であった。繊細さと力強さの対比のはっきりした二曲と多田先生自身も述べておられるが、『富士山』もまた繊細さをはらんでいる。広友会は、藤井宏樹先生による『富士山』のご指導を受けて、新たに引きだされるその繊細さに驚いた。今までにない

 

『富士山』がホールに現前したのではないだろうか。         (深沢眞二)

「五つのルフラン」解説

 

 この組曲は、法政大学アリオンコールによって委嘱され、1977年に初演された。編曲者は五つの曲を〈懐かしい愛唱名歌〉と呼んでいる。五つの歌を好もしいと感ずる人々に、「ああなるほどいい歌だ」と、もっと感動させることを目指して編曲されたと思われる。なお、「ルフラン」とは、英語の「リフレイン」にあたるフランス語。

 

①「中国地方の子守歌」 1928年(昭3)テナー歌手の上野耐之が、母親の歌ってくれた子守歌を山田耕筰の前で歌った。上野の故郷は岡山県井原市高屋町。山田はそれを採譜してピアノ伴奏を付け、「中国地方の子守歌」と題する歌曲に仕立てた。

 

②「お菓子と娘」 西條八十という詩人は、早稲田の仏文の教授でもあった。フランス留学の経験のある彼が詩を書き、1928年(昭3)に橋本国彦という作曲家が曲を付け、翌年奥田良三の歌唱でレコード化された。橋本はまだ二十歳代前半で、「四家文子女史に近づきになったしるしに作曲したもの」と楽譜に書いている。四家は当時新進の歌手。

 

③「カチューシャの唄」  トルストイの小説『復活』を、1914年(大3)島村抱月の主宰する芸術座が翻案して上演した。抱月は、主人公ネフリュードフがヒロインのカチューシャと別れを惜しむ場面の歌を一番だけ作詞し、日本の民謡のメロディと西洋のメロディとを折衷するよう指示を与えて、書生の中山晋平に作曲させた。

中山はこれが初めての作曲で、あとから相馬御風が続きの歌詞を補作し、松井須磨子が歌い大ヒットした。

 

④「鉾をおさめて」   時雨音羽作詞・中山晋平作曲により雑誌『キング』1926年(大15)の正月号に「金扇」という題で発表された。「鉾をおさめて」と改題されて二年後レコード化された。「鉾」は捕鯨の銛で、鯨をしとめて母港に帰る船の上での酒盛りとうたや踊りの情景を描いている。時雨音羽著『出船の港と利尻島』に

よれば、「この歌は鯨とりの歌だが、人々の青春から故郷の母へ捧げる歌でもある」という。

 

⑤「椰子の実」 柳田国男が1897年(明30)の夏に、愛知県の伊良湖崎に滞在したさいの見聞を島崎藤村に語り、島崎がまもなく詩に仕上げたという。大中寅二によって曲が付けられたのは1936年(昭11)。NHKの「国民歌謡」の一つとして、東海林太郎の歌唱で同年11月からラジオ放送された。  

 

                (深沢眞二)

合唱のためのコンポジション第6番 解説

 

第Ⅰ楽章

 

   お前だちゃ、稗搗くうちんべ、ちゃんぢゃこだてよ。

      ヨー、オーイ、ヤー。ノショイヨー、ノショイナー。

   搗いてしまえば、あばえ、また、あばえな、からきたとよ。

      ハレノ、ホン。ハレグレサアノ、サンサエ、ハノサエ。ハン、ホンノ。

      ナニャハリョー。ハレグレサアノ、ショ。

      ホーホ、ヤンリョ、ホオン、ホーホーホー。

   西根山、あがりて見れば、花ざかり。

   花も花、まんさく花が、そよそよと。

            ハレグレサアノ、ヨー、セノショ。ハレグレサアノ、ヨイ。チョイチョイ。

            サーノー、ホン。

 

第Ⅱ楽章

 

      シャ、デン。テテテ・・・トテテ・・・、ヤ、ハレハレハレ・・・。

   アー、権現の、立ち寄る門には、よろず吉し。ヤハ。

   祈れば、叶うる、祝いの里、ヨホー。

      アリャガ。ノショ。インヤ。ハラハラハ。ノホイヤ。・・・ナハレ。

   アー、百八の、ヤ。数珠さらさらと、押し揉んで、ヤ。

   祈れば、叶うる、祝いの里、ヨホー。

      アリャガ。・・・ノホイヤ。・・・オー。

            ハーマーエーカーハイータチー。

      アリャガ。・・・レレレ。・・・アリャアリャ・・・トトト。

      アー、わが方は、ヤ、天より剣は、おそろしや、ナハハ。

   日ごろの悪魔、祓い申せば、祓い申せば。

      ヨホー、ハンヤー、ナハー・・・リャ。

 

第Ⅲ楽章

 

   ヒンヤー。

   鴬の、花をながめし、花の踊りを、踊ろうよ。

   ヒンヤー。

   鴬の、初音を聞きし、子の日かな、ンー。

   梅の梢の、花をながめし、

   花の踊り、踊ろうよ。

   ヒンヤー。ハンヤー。ヘイ、ホ、ヨホ、ヘヘイ、・・・。

 

 

 

 作曲者・間宮芳生氏のことばによれば、1956年頃から、東北地方に始まって日本各地の民謡の「ハヤシコトバ」の様相を調べ、その結果が、「コンポジション」シリーズとして次々に結実することになったという。男声のために書かれた第六番(1968年)の三つの楽章について、それぞれの歌章の由来と内容を紹介しよう。

 

 第Ⅰ楽章は、かつて南部と呼ばれた地方、すなわち青森県南東部から岩手県北部の一帯で歌われてきた、稗搗き唄に取材している。かつて南部では稗・粟・大豆が常食であった。とくに稗は、昭和に至っても岩手県が全国一の生産地だった。前半の歌章の内容は、稗搗きの助力をする男たちの立場から女たちへ向けた歌。

「お前たちゃ、おれらがヒエを搗いているうちは、ちゃらちゃらおべんちゃらを言うけれど、搗いてしまえば、あばよって、カラキタシャンと戸を閉めて、おれたちを閉め出すぜ。」また、後半は、西根山に登ってみれば、豊年満作を約束する「マンサクの花」が咲いてる、という祝い歌である。

 

 第Ⅱ楽章も南部地方の歌に由来する。毎年霜月(11月)になると、南部一帯を獅子頭を持った山伏の一行が巡業し、火ぶせの祈祷や悪魔払いに一軒一軒歩いたり、村々で舞台をこしらえ一晩に十二番の舞いの曲を演じたりした。獅子頭を「権現」と呼び、その舞いを「権現舞い」と呼んだ。歌章は、権現の祈祷の御利益を説くもの

である。なお、「数珠さらさらとおしもんで」は、謡曲『舟弁慶』や『安宅』によっておなじみだった武蔵坊弁慶のしぐさ。「百八の」と付くのは、もちろん数珠のたまの数である。

 

 第Ⅲ楽章は、淡路島の南の海岸、鳴門にちかい阿万村の、亀岡八幡神社に伝わる雨乞い踊りの神楽に取材している。室町時代以来の伝統を持つ「大踊」のひとつ、「花の踊」である。「大踊」は、白い帷子をみなで着込み、白い手ぬぐいを首にかけ、ウチワを手に持って踊る。また、太鼓や拍子木やササラがはいるという。「花の踊」の歌章は古典和歌の発想に基づき、修辞をこらして「花の踊りを踊ろうよ」と述べたものである。ちなみに、「子の日」とは、旧暦の正月の最初の〈子〉にあたる日のことで、古代よりこの日には春の野に出て、小松を引き若菜を摘み、野辺で遊ぶ習いがあった。ただ、第Ⅲ楽章は「花の踊」だけでは終わらず、「大分県の大漁艫囃子の勇壮なかけ声」や「東京木場の労働のかけ声」が用いられている。そして、結びに、どこかのハヤシコトバの断片であろう「おしゃればさまリャガドイ」(「お洒落婆様、リャガドイ」か?)を加えて、イキに締めている。 

  

(深沢眞二)