第15回定期演奏会

 

1997年2月2日(日) 15:15開場 16:00 開演

 

簡易保険ホール「ゆうぽーと」(五反田)

 

エール「ディオニュソスの息子たち」

 

  関裕之 作詩  多田武彦 作曲

 

  指揮 松﨑隆行

 

1 男声合唱組曲「秋の流域」

 

  尾崎喜八 作詩  多田武彦 作曲

 

  指揮 牛尾孝

 

  I. 夏の最後の薔薇 II .雲 III. 美ガ原熔岩台地 IV. 追分哀歌

 

  V. 隼 VI. 秋の流域(わが娘栄子に)

 

2 フォスター歌曲集

 

  Stephen Foster 作曲  Robert Shaw, Alice Parker 編曲

 

  指揮 牛尾孝  ピアノ 廣瀬康  バンジョー 福島智幸

 

  I. Gentle Annie   II. Dolcy Jones   III. Laura Lee Way Down in Ca-i-ro

 

  IV. Gentle Lena Clare  V. Ring de Banjo

 

3 男声合唱のための組曲「蛙の歌」

 

  草野心平 作詩  南弘明 作曲

 

  客演指揮 北村協一

 

  I. 小曲  II. 亡霊  III. 鰻と蛙  IV. 蛇祭り行進  V. 秋の夜の会話

 

4 トスティー歌曲集

 

  フランチェスコ・パオロ・トスティ 作曲  北村協一 編曲

 

  客演指揮 畑中良輔  ピアノ 谷池重紬子

 

  I. Aprile(四月)   II. La Serenata(セレナータ)

 

  III. Ideale(理想のひと)

 

  IV. L'ultima canzone(最後の歌)   V. Addio!(さようなら)

 

(アンコール)

 

  憧れを知る者のみが(チャイコフスキー 作曲)

 

       指揮 畑中良輔  ピアノ 谷池重紬子

 

  秋の歌(『月下の一群(1)』より)(南弘明 作曲) 

 

    指揮 北村協一  ピアノ 谷池重紬子

 

  田舎のモーツァルト(『尾崎喜八の詩から・第二』より)(多田武彦 作曲) 

 

  指揮 牛尾孝


ごあいさつ

 

代表:伊藤 俊明

 

 新しい年、一年が巡り来て、本日第15回定期演奏会の日を迎えました。休日の貴重な

時間をお割き下さりご来場下さいましたみなさまに、心からお礼申し上げます。

 

 年ごとに改まる私達の活動は、間違いなく時を刻んでゆき、本日は、15回目の再出発の

日を迎えました。

 

 15年の歳月は、数多くの合奏団の中にあって未だ若齢といわざるを得ません。しかし

サラリーマンの15年は波乱万丈であり、この間にあって、ひと時も衰退することなく成長

を続けることが出来ましたことは、本当に幸せなことでありました。演奏会の日ごとに過去

を思い起こし、私達を導き支えてくださいます諸先生方をはじめ、団員のご家族と会場の

皆様に改めて深甚の感謝を申し上げます。

 

 5年をひとつの世代として過去を振り返るとき、広友会にもいくつかの節目がありました。

一つは今を遡る10年前、第6回定期演奏会でありました。小家族でありましたころの私達

の絆は「われら歌ひとつ、盃を手に語り合う仲間」でありました。年齢や職場、肩書きを

越えて集う仲間をしっかり抱擁する風土は、やがて団員の一人、関裕之氏の手により

高雅な詩を生み、これに多田武彦先生が曲を与えて下さり、自ら「ディオニュソスの息子たち」

と名づけてくださいました。わがエールの誕生、時は第6回演奏会、20数名の新入会員を

迎え総勢50名に達し、大飛躍を遂げた年でありました。

 

 もうひとつの節目は5年前、第10回演奏会であります。わがエールは心の絆となって組織の土台を固め輪を広げていく一方、広友会は次なる新しい方向を求めます。演奏の質の向上でありました。北村協一先生に客演指揮をお願いし、大久保昭男先生に発声のご指導を仰ぎましたのは、まさにその時、団員は80名でありました。以来、畑中良輔先生には、超ご多忙の中、客演指揮をお引き受けいただき、加えて創立以来、多田武彦先生には欠かさずご指導いただくなど、この望むべくもない豪華な顔ぶれを戴き私達は5年間を支えられてきました。発声や歌唱法、アンサンブルなど演奏技術に関するご指導は勿論のこと、詩の真髄に迫り音楽の深部に触れたお言葉に、私達はどれほど感銘を受けたことでしょう。

 

 このように15年は過ぎ去り、今日から次の5年を目指します。次の5年は21世紀を射程に納め、環境は変わりゆくことでありましょう。しかし、私達の音楽を学び創る活動は、もっと深く普遍的で永遠の道であります。これからも地道に音楽作りに励んでまいります。願わくば言葉よりも豊かに詩の心をお伝え出来ますように。15年の感慨に耽りつつ、みなさまへの感謝の言葉に代えさせていただきます。

「蛙の歌」(詩:草野心平、曲:南弘明)考

 

南弘明作曲『蛙の歌』解説

 

 えー。わたくしは福島県いわき市郊外の上小川という在所の蛙であります。同地出身の草野心平氏が蛙語から日本語に翻訳なさった詩集『定本 蛙』の詩に、南弘明氏が曲を付けられた男声合唱のための組曲『蛙の歌』の演奏に先立ち、一言申し上げます。その昔蛙語はヒトにも日常的に理解されておりました。欧州の昔話「蛙の王子」の頃、お姫様と蛙とは障りなく会話できたのであります。しかるに、古池に飛び込む音のみが聴かれ、痩蛙負ケルナと外野席から応援されるばかりの時代には、蛙語に耳を傾ける有徳の人士は絶えておりました。

 

あの筑波山麓男声合唱団さえ蛙語ヴォカリーズが精一杯、わたくしどもは薬屋の看板となり果てて声なく立ち尽くして参りました。それが本日、詩人と作曲家の手を経て合唱曲となり感情と主張を具えた言語として皆様のお耳によみがえりますことは、誠に慶賀すべき快事であります。では、わたくしども蛙の生の営みを組曲の5つの歌によって紹介いたします。

 

「小曲」の隠れたテーマは〈月光と蛙〉と申せましょう。月は蛙にとって生殖の歓喜を促す存在ですが、季節が移り雪片が空を流れて月光を遮るようになると、月に感応して眼を光らせていた土の中の蛙たちも、興奮を次第におさめて冬眠に入るのであります。

 

「亡霊」は蛇の毒牙にかまれて青紫の毒薬色に麻痺し始めた意識の中で、現実を転倒させて蛇を呑む夢を見ている蛙のうわ言。「鰻と蛙」は、スワ蛇か!と緊張走る「カキクケコ」と、蛇らしきものが眼前に現れての大恐慌「ガッガッガ、ガギグゲゴ」と、鰻と気付いて安堵する「ラリルレロ」それぞれの蛙語コーラスが、鰻の遊泳に伴い田んぼの中を移動してゆくさまであります。

 

「蛇祭り行進」は蛙界随一の勇猛果敢な英雄ゲリゲが怨敵青大将をやっつけた時のちょうちん行列にほかなりません。

 

「秋の夜の会話」は即ち「切ない」けれども「死にたかあない」という冬眠前の蛙の心情吐露ですが、それはまた生き物全てに共通の〈生の悲しみ〉と申し上げてよいでしょう。

 

えー。「音楽は世界の共通語」とか言われますが、今後は「音楽は人類と蛙類の共通語」と改めていただきたいものです。なぜならば、蛙界の諺にも「コーラスは俺達の合言葉!」と申しますうえに、わたくしどもの子供等の姿には、皆様楽譜の中で毎度おなじみでございましょう。

 

以上簡単ではありますが、蛙代表として御挨拶申し上げました。  (翻訳 深沢眞二)

 

 

 

序.組曲のサビ

 

蛙の歌の作曲家南弘明を知ったのは、自分がまだ大学の合唱団で歌っていた頃に彼が世に出した「月下の一群」を通してであった。

その終曲「秋の歌」 は、それより前に合唱連盟の作曲コンクールで最優秀賞を取り、ハーモニーに掲載されていたと思う。

それを当時のB1のサブ・パトリ(後に副指揮者としてこの組曲を振る)が、「これはいい!いい!」と言っていたのを思いす。

その後、「月下の一群」は次々に続編が出たが、どの曲集も似たような5曲編成の組曲となっていった。

この「月下の一群」に見られる5曲編成ということは、案外作曲家のごだわりがあることなのかも知れない。

実は、蛙の歌にもそれに共通する点があるように思われるのだ。

 

次の質問に答えてもらいたい。  

 

Q:蛙の歌のメインは何曲目?

 

   A1:そりゃあ、4曲目でしょう。一番長いし、曲の構成も大きいし。

 

   A2:え?組曲って最後の曲がメインじゃないの?

 

   A3:う~ん?「うなぎ」?  

 

私見では、5曲目が作曲者にとっては最も思い入れのある曲だと考える。

組曲の4曲目に最大の曲を持って来るのは「月下の一群」でも用いられている手法だが、1集を例に取ると4曲目:5曲目は「海」:「秋の歌」となっている。

堀口大学が先人の訳を知らずに訳したと告白している「秋の歌」は上田敏の、淡々とした文語訳に比べて感情が表に出たものとなっている秀作であり、知名度は当然「海」より高い。

それだけ印象も大きくなる筈である。

蛙でも4曲目の「蛇祭り行進」は合唱人には比較的知られた詩だか、一方の「秋の夜の会話」は小学校の教科書にも登場する程知られた詩である。

さて、人口を介して知られているということは、当然、音楽を通して聞く前に聴衆には言葉から連想されるイメージが出来ており、意を決して作曲に取り組まねばそのイメージの前に敗れることにもなり兼ねない危険性を孕んでいる。

「月下の一群」において、南はその賭けに見事に勝っている。

「秋の歌」は堀口大学の世界を見事に表現し切った秀曲に仕上がっており、一気にT1のハイAで聴かせる頂点から、一転して木の葉が舞うような幕切れへの劇的な展開が、聞く側に強い印象を残すことに成功している。

実は、この展開こそが作曲家南の美学ではないか、と思うのである。

あくまで、最後は幕を見事に引く、ということに拘っているのではないか、と思うのだ。

そして、幕切れの前のテンションは最大限に昂じていればいる程、ラストシーンは強烈に印象付けられるのが音の力学である。

そうだ。あくまで、印象付けたいのだ、最後の曲を。  

 

南の組曲の1曲目から4曲目までというのは、非常に上手く「起承転結」が行われているように思う。

1曲目は、序曲のような性格を持ち、2曲目は動きを出し、3曲目で少し戯けて見せ、4曲目は真面目に音楽する。

2曲目が「蛙」では「ロンド」で「月下」では「輪踊り」なのも偶然ではないだろう。

そして、結論付けられた筈の後にやって来る5曲目に思いが込められているのだ。

南のそれは、非常に屈折した精神を表しているように一見して感じられるが、実は人間的な弱さへの共感が込められていると考えることが出来る。それを説明する為に、「月光とピエロ」との対比をしてみよう。

えっ?何故「ピエロ」かって?ほら、1曲目はピエロの1曲目のパスティーシュになっているでしょう?知りませんでしたか? 

 

「月光とピエロ」は、いきなりピエロの舞台裏の顔から始まる。

そして、2曲目も3曲目も4曲目も、ピエロの表舞台には決して表われない、人間的な哀愁が漂う。

そして最後の「ピエロとピエレットの唐草模様」に至って、漸くピエロの表の顔が登場し、そこへ俯いた内面の顔もようやく面を上げて重なって来て、プロフェッショナルなピエロの「大団円」的音楽展開で終了する。

実は、南の組曲はこれの全く裏返しなのだ。

1曲目から4曲目までは登場人物の内面的表情は表面上見えて来ない。

音楽的な構築のはっきりした、「ハレ」の部分が前面に押し出されている。

内面の心情が正面から出て来るのは5曲目だけなのである。

その前の4曲は、ある意味では、長い長い序章なのである。(注1)  

 

そうしてみると、1曲目で借りて来た「ピエロ」とこの「蛙」との関係は、中々微妙なものなのが解るだろう。

片やこの1組曲で邦人合唱界に巨大な足跡を残した清水脩と一音楽徒南との対比にも見えて来るのである。

そして、同様に弱さというものを扱いながら、清水が精神論的とも思える予定調和で締めくくっているのに対し、南はあくまで弱さを引き摺りながら幕を引くのである。 

 

以下項を改めて各曲を見ていこう。

 

(注1) 勿論、「蛙の歌」は、地中の蛙から始まり地中へ戻っていく蛙で終わる、という生命循環としても捕らえることが出来る。こうしてみると「水のいのち」との対比が出来そうだか、ここではここまでにしておこう。

 

 

 

1.小曲

これまた偶然かも知れないが、「月下の一群」の1曲目と同じタイトルを持つこの曲は、序曲的色彩の強い曲であり、しかも、そのモチーフは「月光とピエロ」の1曲目に酷似している。

展開の和音はG-durからA-durに変更されてはいるものの、音の進行も良く似ている。

全体の構成は、ABAのソナタ形式で、これもピエロと同じ。まぁ、これは  良くある構成ではある。 

 

しかし、前項で展開したように、ここには清水脩の音に対する南のアンチテーゼがある。

最初のテーマの終結が、「ピエロ」では、♪淋しく立ちにけり、と短調に進行するのに対し、「蛙」では♪雪が降り、と長調で解決する。

ここからの音の重ね方は、多田武彦にも良く見られるパターンだが、勿論、清水脩の作品でも常套手段として使われている。

「ピエロ」の中でも4曲目の後半の音の繋がり(♪コロンピーヌの~)との類似が指摘出来るであろう。mollに対してdurを持って来る。

正に、南がこれからしようとしていることが、ここに象徴的に表現されているとは言えないだろうか。 

 

B形式の後半に臨時記号の多用された展開がある。

ここで、「月下の一群」の終曲の、♪時の鐘鳴りも出れば~の展開を思い出される向きもあるだろう。

ここで南の内面の心情が吐露されかけているのだ。

しかし、はた、と模倣している元の音形に戻り、ソナタ形式を完了させて曲は終了する。

「今は(まだ)何にも見えないよ」と台詞を残して南は1曲目を終わらせているのだ。

そして、それは勿論5曲目まで見えては来ないのである。

 

 

 

2.亡霊

組曲中、最も音が映像的イメージを伴っているこの曲には、  

 

「わひ わひ わひ」 

「らりらら らりらら」  

 

という2つの蛙語が出て来る。(注:うふふっ、は人間の言葉である。)

ここで、近年の合唱界におけるベストセラーとなった深沢眞二氏の「なまずの孫」で展開された蛙語の基礎を振り返ろう。

氏の分析によれば蛙語の主要な子音は「K/G/R/B」であり、これらが主に自立語を構成するという。

さらに、「N」及び母音はこれらを拡張する役割を持ち、「S/H」は強調の子音、その他は抽象語に多く用いられるという。(下図参照)

 

                      興奮(+)

 

                K      |       G

 

    (-)                 |  Ru               (+)   

 

    悲/哀/痛---------------------好/良/喜

 

                   Ri   |

 

                       |        B

 

                      沈静(-)

 

                                  (after Fukasawa,1996)  

 

さて、日本語によって書かれた第5連で「祭」であると言っていること、そして、同じ調子で3回繰り返されていることから見て、この蛙語は「わっしょい」「らっせら」のような祭の囃子詞である可能性が高いと思われる。

「わひ」は深沢理論からすると、強調と抽象的な意味合いを持つ言葉であり、「らりらら」には「り」という悲しみに通じている音が登場するが、それは他の3つの「ら」という抽象的な音の中に埋もれている。

人間にとっても「わっしょい」「らっせら」の意味が既に失われ、祭という形式の中でだけ生きているように、この蛙語を咆哮している蛙達にも既に意味は文字通りには理解できていないのかも知れない。

しかし、そこに、僅かながら祖先から伝わっているであろう「思い」があり、それが「り」という音に込められているのではないであろうか。(注2) 

余談であるが、「わっしょい」には人間達の祖先の口に出しては言えない怨念が込められているとも言う。 

 

さて、そのような伝説的蛙といえば、そう、あの蛇をも打ち負かしたと言われるゲリゲである。

そして、この「亡霊」を称える「万歳祭り」は勿論、人間の盆祭に等しい意味を持つものであろう。

すなわち、この蛙達の盆祭は、4曲目に登場する勝利の行進「蛇祭り行進」を再現しているものだ。

例えば、津軽に伝わる「ねぶた・ねぷた」と同じように。

とすれば、この踊りは、人間達の行う「ドドンパ」ではなく「ロンド」であるに違いない。 

 

さて、南のアプローチを見てみよう。

冒頭から144の早いテンポで進行するところから見ても、この踊りが盆踊りの定番「ドドンパ」でないことが解る。

蛙の方が案外洋風である。

そして、一見無秩序に登場する「蛙語」だが、南は人間語と蛙語の詩の連に忠実に作曲をしている。

実は、この蛙語の音は田の側で育った自分の耳には非常に自然の蛙の鳴き声に忠実な音の描写として聞こえる。 

 

蛙は通常「先唱隊」と「追唱隊」に分かれて鳴く。

しかも追唱隊は普通、先唱隊が鳴き出すや否や直ぐに追いかけ始め、あっと言う間に追い付いてしまう。

しかもaccel. e cresc.である。

そして、追い付くと、やおら暫らく、蛙達は鳴き止むのである。

勿論、その直前、鳴き声は最高潮に達している。

蛙語を含めて最初の4連の音楽は、正にこのような自然の蛙達の掛け合いの描写そのものとも受け取れるものである。 

 

次の「うふふっ」は繰り返しになるが、蛙語ではない。

人間語の「うふふっ。」である。

しかし、南はこれを擬似蛙語のように扱い、全体として「先唱」「追唱」の蛙達の長い歌を表現している。

ポリフォニックに始まりやがて、ホモフォニックに♪万歳祭りだ~と歌う所で追唱蛙は追い付くという訳だ。

勿論、追い付いた所で一先ず「鳴き止む」のである。  

 

この後、南は、最後の蛙語の前に長いオブジェ(Andate 76)を挿入している。

このオブジェには完全5度・4度の和音の繋がりが使われており、神秘的な音の印象を聞く者の耳に残す。

実は、ここでは、蛙達は鳴いていない。

いや、現世の蛙達と言った方が良いかも知れぬ。

神秘的な完全系の音形は、そこにスーパーナチュラルなものの存在を感じさせる。

そして、時々消えるように聞こえて来る「言葉」。

それらは、この世のものではない。

亡霊の歌である。

勿論、亡霊は子孫達のこのお祭りに御満悦である。  

そして、そっとC-durのハーモニーと共にまた消え去る。  

 

祖先の霊を感じた蛙達の踊りはいよいよ佳境に入っていく。

そして、「ぐるぐる」と回り(ロンド:回旋曲)ながら、フィナーレを迎えるのである。

ロンドは通常ソナタ(ABA)形式の後にフィナーレとして用いられるモチーフのバリエーションと考えられる。

通常はソナタを含めて(ABACABA)形式となる。

このテンポ・プリモで最初に登場したモチーフが出て来て展開していくところから考えても、正に、この「ぐるぐる」は「ロンド」そのものなのである。

だから、「輪踊り」と対比出来るということなのだ。

 

(注2)ゲリゲの悲劇については参考文献「なまずの孫」-V「蛙語入門」の項を是非参照されたい。  

 

参考文献)  深沢眞二(1996), なまずの孫-邦人合唱曲への文芸的アプローチ

 

 

 

3.鰻と蛙

以下の会話は、ある春の宵に交わされた、酔いしれた男達の会話に基づいている。 

 

A木:「Sさん、この3曲目の意味って解ります?」  

 

S: 「えっと、これかぁ。良く解んないんだけど、ラリルレロっていうのが鰻の音形を現わしているんじゃないの?それで、各パートに音が移っていくのが、鰻が動き回っているのを音像的に表現している、っていうことじゃ?」 

 

A達:「じゃぁ、あの女声合唱の『蛍』(小倉朗の、音が3Dに鳴る名曲です。)みたいなものですか?」 

 

A木:「それじゃ、このカキクケコが蛙かぁ。」  

 

N村2:「ガギグゲゴはなんですのん?」  

 

S: 「う"~ん? 何でしょう?」  

 

ここに至って憐れな者達の会話を傍らで聞いていたF沢先生が徐に登場。  

 

F沢:「これは、とっても簡単なことなんです。」  

 

一同:「エ"ッ!」  

 

F沢:「皆さん、蛙語の子音の原則を思い出して下さい。蛙語の子音で「G」は最も強い緊張を表します。そして、「K」はやや緊張している状態を示す時に使われます。そして、「R」には緊張がありません。この場合では安堵の意味で使われています。つまりですね。蛙にとって最も恐れる相手とはなんでしょう?」 

 

M崎:「うなぎ、ですか?」  

 

F沢:「それじゃ、話がつながらないでしょ。」  

 

K藤:「へび、ですね。F沢さん。」  

 

F沢:「そう、へび、です。だから、最初に、カキクケコ、って言っている所は『何だかいやな感じがするよ』『へびかな?』っていうような蛙達の会話なんです。 

 

一同:「ヘェーッ!」  

 

F沢:「でも実態が見えないし、一先ずまた緊張が解けて『ラリルレロ』となる。しかし、又々辺りがざわざわとして来て、如何にもへびが這い回っているような感じがするので、再び『へっ、へっ、へびじゃないの!?』=『ガッ、ガッ、ガギグゲゴ!』と騒ぐ訳です。」 

 

一同:「うんうん!」  

 

F沢:「ところが姿が見えてみると、へび、じゃなく、うなぎ、だった訳で、安心して『ラリルレロ』となる訳ですね。」 

 

一同:「なぁ~るほど!」  

 

N村2:「あぁ、だから『なんだぁ!うなぎだぁ!へびじゃねぇや!』となるんですね。」 

 

F沢:「その通りです。作曲家の南さんも良く解って作曲していますね。」 

 

S :「それで?」  

 

F沢:「それでって?」  

 

S :「元の詩にも、もう一度同じ蛙語が出て来ますよね。こっちはどうなんですか?」 

 

F沢:「それも同じ事です。」  

 

M崎:「じゃあ、2回驚くって訳ですか。はっはっ!さすがは蛙。進化の途上にあるって訳ですね。」 

 

F沢(やや鼻白んで):「いや、そうじゃなくて。何も、同じ蛙である必要は無いでしょう。田圃は広いんですから。」 

 

A木:「とすると、こっちは又別の所で同じようなことが起こった、と見る訳ですね。」 

 

F沢:「そうです。そして、ほら、最後はみんな『ラリルレロ』となって、大団円で終わるでしょう。でも、安心のフレーズだから、段々落ち着いて行くようにrit.して、ppで終わるんです。」 

 

一同:「なるほどなるほど!」  

 

M崎:「あっ、でもB1だけは『ガギグゲゴ』って歌いますよ。」  

 

F沢:「それは、きっと鈍い蛙なんでしょう。」  (大爆笑)  

 

やがて、男達の会話は「石英閃緑岩」と「ウンブリア」の話へ移っていった。

 

 

 

4.蛇祭り行進

組曲の中間3曲がいずれも「蛙」と「蛇」に関わるエピソードであることに気が付かれたであろうか。

そして、勿論この構図でのエピローグを飾るにふさわしい曲がこの「蛇祭り行進」である。 

 

草野詩人の描き出した世界についての考察は前項で参考文献に挙げた「なまずの孫」に詳しいのでここでは繰り返さないが、一つだけ、深沢氏に反論する点があるとすれば、この曲を蛙の怨念を表現した暗い曲、と捕らえている点である。

しかし、これは壮絶な戦いを終えた蛙達の雄叫びにもにた「歓喜」の行進である。

勿論、勝利に酔いながらも、心はやや荒んだ感じでの行進だ。

戦いで敗れ去った者への葬送曲でもある。

その雰囲気をf-mollの和音に、南は表現していると見たい。  

 

出だしのポリ・リズムの伴奏に乗ってテナー系の先導隊が動き出す。

勿論、ここはまだ行進の本隊ではなく、露払いの部隊である。

「ぴるるる」は深沢理論では蛙の最大級の感激を示す音と解釈される。

それが、B1とB2で「半拍づれながら」進んでいく。  

と、行進を司る蛙の「歩調をあわせろうい。」という掛け声が掛かり、以降見事に揃ったリズムがB1/B2で打ち鳴らされていく。

この辺りは、作曲家南も蛙の勝利に浮かれて悪戯が過ぎるというところであろうか。 

 

勿論、蛇との戦いは楽なものだった訳ではない。

多くの戦友蛙達が犠牲となっている。

そのことを思わずにはいられない。

そんな気持ちを現わして、音楽は、Andate 60からの部分に入って行く。

蛍達の行方を見つめる視線は、自然に天に向かってしまうのだ。  

 

テンポ・プリモから、メロディは各パートへ受け継がれてコラールのような展開を見せる。

ここで、ショスタコービッチの十の詩曲の終曲「歌」を思い出される向きもあろう。

各パートへ力強く受け継がれる旋律線は、是非とも雄々しく聴かせたいところである。 

そして、自陣へ戻った後は、歓喜・狂喜の怒涛の「ロンド」である。  

 

この曲は、組曲中最も多くのモチーフが次々と登場する。

その音の構成は、まるでシンフォニーのようである。

その中を貫いていく「ぴるるる」という言葉。

まさにこれは「第九」の♪フロイデ シェーネル ゲッテル フンケン~に当たると見て良いだろう。

「第九」の4楽章のフィナーレと同様、この曲のフィナーレも速いテンポでドンドン突き進んでいく。

そして、組曲中最大のボリュームを示すfffが示され、曲は終了する。

この最後の「ぴるるる」は第九では、あの打楽器の連打音に相当する部分であろう。 

 

ショスタコービッチの「歌」といい、ベートーベンの「第九」の4楽章といい、この曲は強烈に「完結」することを連想させる。

そして、事実、蛙と蛇の織り成すシンフォニーはここで、つまり、1曲目から4曲目までで、完結するのである。

後に残るものは、歌い手の去った後のオペラの舞台のような「秋」なのだ。

 

 

 

5.秋の夜の会話

組曲の最後を飾るこの曲は不思議な感じに満ちている。

曲はテナー・ソロとベース・ソロの織り成す「会話」が中心となっている。

バックコーラスに1曲目の「小曲」の短調ヴァージョンが終止流れている。

コーラスとソロの関係は一見して無秩序にも感じられる程、距離がある。

しかも、この転調されたモチーフの意味は何であろう?  

 

長調と単調。 目覚めと眠り。 始まりと終わり。  

 

単なる序曲のように感じられた1曲目は、ここに至って5曲目との強烈な対比の中で回想されることになる。

しかし、それだけなのであろうか?  

ここには、何か隠された作曲者の意図があるように感じられて仕方がない。  

 

話は変るが、この詩について私見を述べておきたい。

「秋の夜の会話」は余りにも良く知られた詩である。

小学校の教科書でもお馴染みである。

全く文学者からはお叱りを受けそうな解釈であるが、自分にはこの「会話」は2匹の蛙の間で交わされている文字通りの「会話」ではないような気がしてならない。

これは、国語の教科書でこの詩に出会った時に、その章の終わりに載っていた「咳をしても一人」という文章との結びつきが、頭から離れない、という極めて個人的な印象によるものなのだが。

しかし、試しに、最初の4行を独白だと思って読み始めて頂きたい。

「君もずゐぶん痩せたね。」という台詞以外、殆ど独白のような台詞回しになっていることに気が付かれるだろう。 

 

ともあれ、音楽は2匹の蛙の会話として構成されているし、深沢氏からは、これは「会話である」と教授を受けているので、その線で話を進めよう。

短調の曲想が、詩情からも感じ取れる何処か寂しげな秋の雰囲気を漂わせている。

深沢氏は前述の著作で、この詩と「おれも眠らう」の関係を取り上げ、冬眠状態に入った蛙の会話である、と捉えている。

が、しかし、「もうすぐ土の中だね。」という文句から考えても2匹の会話は、まだ、地上で行われている。

勿論、変温動物である両生類の蛙の動きは冷たい秋風の為に鈍くなっており、半ば眠ったような状態での会話ではある。

詩の始まりは会話といっても同じ内容の繰り返しになっており、会話のテンポは非常にゆっくりしたものであろう。

ひょっとすると、二匹目の蛙は、一匹目の蛙の言葉をよく聞いていなかったのかも知れない。

一匹目の蛙が二匹目の蛙の言葉を意に介していないのは、会話の話題が無関連に展開するところからも解る。

それが崩れるのは「どこがこんなに・・・」からの4行だけである。

 

この4行には、何かに責っ付かれたような会話のテンポが感じられる。

ここには、万歳祭りの時に見られた「先唱隊」と「追唱隊」のなごりのようなものが感じられさえする。

そして、盛り上がったところで、2匹は鳴き止むのだ。  

 

南の音楽にも明確にこの会話のテンポへの意識が見て取れる。

しかし、表情記号の方は会話のテンポの加速をやや先取りしてしまっていると言わざる得ない。

むしろ、最も強調されるべきフレーズは「腹とったら死ぬだらうね。/死にたかあないね。」の部分であると詩の上からは思われる。 

 

勿論、一枚裏を読んで、逆表現、という風に考えることも出来る。

強調したいことをわざと声を潜めていう、という表現だと。(例えば、三善晃の「クレーの絵本2」の「まじめなかお」の中の♪おそろしい~、のフレーズのように)

この部分のソロは、それまでの、寂しげだが、どこかのんびりした雰囲気さえ感じさせる会話の音色とは一転した、暗い、腹の底から絞り出すような、それでいて、声に出しては言えない、というような音色を込めて歌って欲しいと思う。 

 

勿論、裏の裏を読んで、南はわざと強調し無かった、という可能性もあるが。 

 

勿論勿論、裏の裏の裏を読んで...  

 

(閑話休題)  

 

2匹の蛙は鳴き止んだ。

だから、次の2行が最初の4行の縮小された形になっているのには意味がある。

会話は果てしなく循環していくのである。あの万歳祭りの夜のように。  

 

ここに至って読者は次の疑問を覚えずにはいられないであろう、「果たしてここには2匹の蛙しか居ないのだろうか?」と。

回りを見回してみよう。

そこには、ひっそりとだか「生」にしがみついている蛙達の姿が、土色の保護色に隠れながらも見出せるに違いない。

つまりそれが、コーラスの意味なのだ。

バックコーラスは単調のメロディの保護色で隠れていた「何万の。」蛙達の生き残り達なのである。 

 

さて、それではこれが、南が薄笑いを浮かべて「いまはなんにも見えないよ。」と言っていたことであろうか。

何万もの蛙が秋を迎える頃には数も減ってしまい、物悲しいマイナー・コーラスを奏でなければならない、ということが。 

 

実は、ここで告白しなければならない。  

 

答えが解らないのである。  

 

いや、南は確かにこのことを隠していたのだと思う。

そして、そんな弱々しい蛙達に彼なりの親愛の情を示しているのだ。

これは南の蛙へのララバイ、いや或いは、レクイエムなのかも知れない。  

 

しかし、詩人草野心平の言葉達は、そんな弱々しげな人間の思考を遥かに越えて、人類誕生以前から、いや地上の全ての動物達が誕生するよりも前に、地上に大いなる可能性をもたらした両生類の子孫、蛙、の力強い生命力を描いてしまっている。

このことが、どうしても音楽の描き出す頭で考えた「机上の世界」に嵌まりきらないのである。

 

果たして指揮者はこの矛盾をどのように乗り越えていくのであろうか。  

 

興味は尽きない。

 

 

 

結.蛙の歌、と、水のいのち

最初の項でも述べたが、蛙の歌の5曲の流れをを、春の目覚め→夏祭→晩秋の眠り(→冬眠→春の目覚め)というように生命循環の一部のように考えることもできよう。

この循環ということで思い出されるのが、水のいのち、である。  

 

畑中教授の見事な音楽的解釈による演奏が、男声合唱ファンには知られた、「水の循環」という小学校の理科にも出てくる自然の摂理を描いて見せた、合唱曲である。

勿論、「水のいのち」は単なる自然現象を歌った曲ではない。

文字通り何億年もの間繰り返されて来た水の循環という現象の中で、今、現在、進行している循環の中の、ほんの一瞬一瞬に込められている人間の性を捉えて描き出した(敢えて名曲とは言わない)曲である。 

 

ここに示されている:

 

   小さな個 : 巨大な摂理  

 

という対峙を「人間:神」と読むことも出来る、というのは前述の深沢氏の著作「なまずの孫」の「向こうみずのいのち」の章で解説されている通りである。 

 

翻って「蛙の歌」について見てみよう。

作曲者は膨大な蛙の詩群の中から5つを選び出し、春秋の循環の流れに沿って配置した。

そこには明確な時間の経過への意識があった筈である。

しかし、作曲者南にとって循環することそのものは、余り問題でなかったようだ。

考えてもみよう。季節のサイクルを詩の題材に求めれば「春・夏・秋・冬・春」となるのが、普通ではないだろうか。

「ふたたび春の始ま」るのを見て、暖かい気持ちにするのが自然だ。

もし循環を強調する為に演奏者に横暴が許されるなら、終曲の最終和音をa-mollからA-durへ展開させ、小曲をもう一度歌ってしまう位のものである。

畑中理論で、「水のいのち」の1曲目が最後にもう一度繰り返されるのは、そうすることで「小さな個」は綿々と続く生命のバトンリレーの一部として「巨大な摂理」の中に意味を見出せるからなのだ。

知る人ぞ知る湯山昭の「流氷のうた」でさえ、そうなのである。

循環は最後の端が、もう一端へ戻ることが見えてこそ意味がある。  

 

しかるに、「蛙の歌」には明確な循環が無い。

そのことが中間3曲の「生」の溌剌たる活動を非常に「刹那的」なものに印象付けてしまっている。

しかし、前項の繰り返しになるが、草野詩人の蛙の詩には、生命体の先達である両生類への尊敬の念さえ感じられるのだ。

中生代の始め、植物に続いて初めて陸上に登場した動物と考えられている両生類は、現代の蛙に至るまで、実に5億7千万年も生き永らえている類なのだ。

人類は最近の学説でさえ、高々5百万年前(自分が学生の時には2百万年と言われていたが)までしか「溯れない」のだ。

哺乳類全体で考えても、6千6百万年前だ。

如何に、途方もなく両生類が「宇宙の向こうを眺め」続けて来たかが解るだろう。 

 

ここからは、各自考えてもらいたい。  

 

この音楽と詩の非融合性を。  

 

それぞれに答えを見つけてもらいたい。  

 

「第3次表現者」である歌い手は何を主張すべきかを。

 

「蛙の歌」考(完)